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リモートワークの身体性|Nextmode Blog

日本酒をこよなく愛する里見です(ワーケーション中に日本酒の香りに目覚めました)。あたらしい年となり、改めてネクストモードが取り組むリモートワークの意義について考えてみました。なぜリモートワークを続けているのか、その意味を、学生時代に大好きだった現象学の考え方を頼りに考えてみたいと思います。

はじめに

リモートワークによって、我々は働く場所の自由を獲得しましたが、時間の自由についてはどうでしょうか?好きな場所で働けても、好きな時間に働けている人は、まだまだ少ないのではないでしょうか?しかし、そもそも好きな時間に働く自由とは、なんなのでしょうか?今回は、時間について考えてみたいと思います。

ベルクソンの時間論とモモ

まずはベルクソンを中心に時間論を考えてみたいと思います。ベルクソンの哲学を読み込むのが目的ではないので、わかりやすくミヒャエル・エンデの『モモと時間泥棒』を比較してみたいと思います。ベルクソンの時間論と『モモ』を並べてみると、まるで寝ぼけ眼に効く目薬のように、時間という不思議な存在が俄然はっきりと姿を現します。

ベルクソンは「流れゆく時間(持続)」を重視し、砂時計の砂を均等に刻むのではなく、個々の主観や意識によって膨らんだり縮んだりする時間を説きました。つまり、時計で測れる客観的な秒針よりも、心が感じ取る「質的な時間」に彼は光を当てました。

一方で『モモ』では「時間泥棒」によって奪われていく時間が描かれ、日常が急速に灰色化してしまう様がシュールに表現されています。灰色の紳士は省エネスーツに身を包み、「時間はお金」とでも言わんばかりに、人々の日常から大切なゆとりをかすめ取ります。すると、不思議なことに、時間をため込もうとすればするほど、いつのまにか心のゆとりは失われてしまいます。『モモ』の世界では、小さな女の子が一言「時間は自分が味わうものだよ」と教えてくれているかのようです。

両者を照らし合わせると、私たちがふだん「節約」や「効率化」を謳って大切にしているはずの時間こそが、実は私たちの心からこぼれ落ちやすい存在だという警告を放っているようです。

ベルクソンの生命論と時間論

ベルクソンは生命を「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」として捉え、あらゆる生物が持つ内的エネルギーが連続的に変化し続けるダイナミズムに注目しました。この「生の飛躍」は直観的で、論理や数値では捉えきれない“生きている実感”を重視します。そして、時間論においても、彼は“持続(デュレー)”という概念を打ち立てました。これは、あたかも流れ続ける砂糖水のように、今の状態が過去を内包しながら絶えず変化していくイメージです。

たとえば、ベルクソンは「砂糖を水に溶かす」という有名な比喩を用いています。砂糖が水に溶ける過程をじっと観察しても、その“溶ける”瞬間を切り取ることはできず、ただ連続的にじわじわと味が変化していく全体的な過程しか見えません。これこそが“持続”であり、人間の意識や生命の働きもこのように絶え間なく変化していると彼は考えました。言い換えると、砂糖が溶けるのを、ただ「数分」という数値で測るのではなく、「待つ」という行為に伴う心理的実感こそが、本来の時間の姿だということなのでしょう。

一方でアインシュタインの時間論は、相対性理論に基づき、観測者によって時間の進み方が変わるという「客観的な相対性」を主張します。つまり、光速に近い速度で移動すれば、地上の人とは違う時の流れを経験するかもしれない。アインシュタインは、速度差によって時間の進み方が変わるという客観的・物理的な事実を示し、「時間は絶対的ではない」と証明してみせました。しかし、それは依然として計量可能で物理的なフレームワークの中での話であり、ベルクソンが言う「生の質感」とは次元が異なります。

二人は1922年のパリで激突しました。論争の要点は、時間を“測定可能な概念”として扱うか、“意識的な質”として扱うか、という点にありました。

アインシュタインは「哲学者に対して物理学を説くのは難しい」と述べ、ベルクソンが求める“生の時間”を「物理学が扱う時間とは別物」と切り捨てがちでした。アインシュタインは、「物理学は測定可能な事実を扱うのであり、主観的体験はそこに含まれない」との立場でした。アインシュタインから見れば、哲学的議論は物理学の検証とは別の領域のように見えたのでしょう。

一方のベルクソンは、相対性理論が示す時間は「時計で測る」数値的なものであり、人間の意識が感じる持続とは相容れないと主張しました。つまり、「相対性理論における時間の定義が、意識の経験する時間を切り捨ててはいないか」という主張をし、「測定できる時間と測定できない時間を混同してはならない。人間が生きる時間の本質は、連続する質的変化だ」と応じました。ベルクソンは、人間が経験する時間の厚みや流動感こそが重要であるとし、そこにこそ創造性や自由が宿ると考えました。

両者が交わらなかった理由は、時間を扱う立場の違いに加え、測定と経験、科学と哲学といった次元の差によるものなのでしょう。この論争から学べるのは、時間は決して一枚岩の現象ではなく、物理学で計測できる側面と、日常感覚で味わう内面的な側面とが並立し得るということです。

 

メルロ・ポンティの身体論とベルクソンとの関係

ベルクソンの哲学は、その後の現象学の哲学者に大きな影響を与えました(※注1)。中でもメルロ・ポンティは、「身体性」を哲学の中心テーマとして掲げ、知覚や感覚が私たちの世界認識において決定的な役割を果たすことを強調しました。ベルクソンが重視した“持続”は心的時間の厚みを取り扱いますが、その根底には身体が今ここで感じ取る“生きた感覚”が不可欠です。つまり、思考とは頭の中だけで行われるのではなく、身体を介して世界と交わるプロセスそのものでもあるわけです。

メルロ・ポンティによれば、私たちが見る景色や聴く音は、身体を通じて初めて意味を持ちます。ベルクソン流に言えば、この身体的な感覚は連続した時間の流れの中で統合され、過去の感覚との“持続的な融合”によって深まります。このとき、精神と身体は二項対立ではなく、互いを貫通し合うひとつのプロセスとして働きます。

心と身体の問題について言えば、デカルト以来の「心身二元論」は、身体を物質的な装置として扱い、精神をその操縦者のように捉えてきました。しかし、ベルクソンとメルロ・ポンティは、身体そのものが思考や知覚に組み込まれた存在であり、意識と身体は切り離せないと主張します。彼らの思想が織りなす地平は、私たちの経験世界が“生身”の身体を媒介にしてこそ成り立つという点に光を当てることになります。

VR体験の限界

ベルクソンの時間論に立つと、仮想空間の体験にはどうしても限界が見えてきます。VR技術は視覚や聴覚を巧みにシミュレートし、疑似的な臨場感を与えてくれますが、そこには身体全体で味わう“持続”の連続性が部分的にしか再現されません。たとえば、おいしい料理を食べるときの香りや舌触り、食後に残る余韻のような感覚をすべてバーチャルで表現するのはまだ難しいです。ピアノの自動演奏では感じられない、微妙な音のブレや倍音は、様々な周波数が複合的に絡まり、人間の指の絶妙な動きからしか得られません。300年前に創られたストラディバリウスの響きの秘密や、スタインウェイのシトカ・スプルースの木材から奏でられる響きも、VRで再現することは困難です。

なぜなら、我々が音楽を聴いているとき、旋律を聴きながら次の音を予想したり、前の音の残響を身体で感じ取ったりしているからです。ここでは“過去”と“未来”が重なり合い、今この瞬間の中に持続的に存在しています。また、音楽は耳や脳だけで聴くものではなく、皮膚に感じる振動や、指揮者のタクト、ピアニストの息遣い、バイオリニストの衣装の衣擦れ、会場の臨場感を身体で感じて「聴く」ものです。この「生の厚み」をリアルに体感することが聴くことの身体性です。

しかし、技術の進歩によって一定程度の“ホンモノらしさ”が実現できるのも事実です。視覚的なツアーや会議、教育プログラムなど、VRがリアル体験の代替や拡張として大いに活用される可能性はあります。ここでのビジネスチャンスは、リアルとVRを上手に“使い分ける”ことにあると考えます。たとえば旅行業界では、自宅でのVR体験でイメージをつかみ、本物の現地では身体全体を使って五感を満たすようなサービスを設計する。ベルクソン的な時間の質感を補完する“リアルの余韻”を意識したプログラムが、今後の鍵になるかもしれません。

哲学をビジネスに適用する上での倫理

ベルクソンには、感性や直観といった、どこか科学の手をすり抜ける要素が含まれます。これらは日常の実感や創造的なひらめきを重んじるがゆえに、厳密な論理検証の外側に広がる「目に見えない世界」にも触れようとするからです。ときに、こうした領域は“オカルト”と呼ばれ、危うさを伴うことがあります。ビジネスに哲学の考え方を取り入れる際、そこに「魔法の杖」のような効果を期待してしまうと、浅薄な当てはめに陥る可能性もあります

歴史を振り返ると、ベルクソンに影響を受けたハイデガーは、ナチスの思想に接近し、その哲学が国家主義や独裁体制の正当化に利用された過去があります。同様にベルクソンに影響を受けた西田幾多郎も、第二次世界大戦下の日本において、戦意高揚や国体論の補強に使われてしまった側面が指摘されています。これらの事例は、「存在」(ハイデガー)や「純粋経験」(西田幾多郎)といった概念が、その純粋性ゆえに政治的・思想的に“都合よく”流用され得る危険を示します。

さらに、『モモ』の作者であるミヒャエル・エンデも、ルドルフ・シュタイナーの思想から多大な影響を受けていて、シュタイナー教育や神秘主義の流れを好意的に評価していたとされます。こうした点は、物語の豊かな世界観を生み出す源になった半面、やはり外部から見るとオカルト的・宗教的要素を孕むため、過大な理想を安易にビジネスへ転用しようとする際の危うさを示唆しています。

こうした哲学・芸術・宗教の“聖なる領域”を、ビジネスのために短絡的に利用しようとする行為は、しばしば倫理的問題を引き起こします。なぜなら、真に深い思想や芸術は、その背景にある歴史的・文化的コンテクストと不可分であり、「ここだけ切り取って使う」といったアプローチは極めて危ういからです。企業の経営者や実業家が、安易に“主客一体”や“純粋経験”といった言葉を看板だけ拝借してしまうと、結果的に単なるスローガンと化してしまい、思想の本質を歪める恐れがあります。



だからこそ、私たちはどこかで“エポケー”する勇気を持たなければならないのです。現象学におけるエポケーは、判断保留や括弧入れを行い、一度立ち止まって「自分の思考が危険な領域に入っていないか」を吟味する態度としても有効です。すなわち、どこかで“理想の純粋追求”に突き進むのをいったん保留し、批判的に立ち止まって検証する態度です。

哲学を実践やビジネスに応用する場合にも、この慎重さは欠かせません。主観と客観を一体化するほどに、時に危険な領域へと踏み込んでしまうことを防いでくれるからです。ベルクソンの深遠な哲学を取り入れるときこそ、一方で距離を取り、現実的なバランスを保つ必要があります。思想的な理想を追い求めることは大切ですが、同時に「なぜその理想が必要なのか」「どこまで適用可能なのか」という問いを投げかけ続けるべきでしょう。そうすることで、ハイデガーが陥った政治的利用や、西田哲学が戦時に担わされた役割のような悲劇を繰り返さずに済むのではないでしょうか。深い哲学的洞察があるからこそ、そこに潜む危険にも注意を払わなくてはなりません。哲学の二面性を踏まえることで、“生きた経験”を最大限に尊重しながらも、社会的にも責任あるビジネスや活動を行うことが可能となるのでしょう。

リモートワークと身体性、企業カルチャーの挑戦

リモートワークが普及するにつれ、私たちは身体性の欠如とコミュニケーションの限界という課題に直面しています。メールやチャットツールでやり取りをするだけでは、相手の微妙な表情変化や身体の動きが伝わらず、人間関係が味気なく感じられる瞬間も増えるかもしれません。メルロ・ポンティの身体論からすると、身体こそが世界や他者との結びつきを肌で感じる“主体的な感覚装置”であり、画面越しではどうしても情報が限定されがちなのは否めません。

しかし、それでもリモートワークは続きます。なぜなら、物理的なオフィスに通うだけが働き方の答えではないことに、多くの人が気づきはじめたからです。移動時間を削減し、場所を問わず働ける自由度が高まることで、育児や介護、地域活動、ワーケーションなど多様な生活スタイルを実現できる可能性が広がります。そうした社会的な意義を見据え、フルリモート体制に踏み切ったのがネクストモードです。


ネクストモードでは、オフィスを完全に持たずにオンライン上でのコミュニケーションを活性化する仕組みづくりを進めています。雑談チャンネルやルーレットでの勉強会主催者の指名、全メンバーでのワーケーション、社員合宿など、デジタル空間であっても「偶然の出会い」を起こす工夫を凝らしています。メルロ・ポンティ的な視点に立てば、それらは身体をもった「立ち話」の完全な代替ではないかもしれませんが、「予期しないコミュニケーションの連続」が共同体を活性化するという点には共通項があります。

さらに、WEB会議ではカメラをONにして表情やジェスチャーを意図的に大きく示すことを推奨しています。これによりお互いの存在を“身体的”に感じやすくなる効果が期待できます。加えて、オンラインとオフラインのハイブリッドな関わりも重要視しており、定期的な懇親会やリクリエーションで実際に集まる機会を作っているのも特徴です。2024年度には全社員で紙飛行機を作って飛ばしたり、ドミノ大会を開催して狭い机を囲みながら議論をするなど、身体を伴う遊びと作業を組み合わせる場を用意しました。これらのオフラインでの体験が“リアルの余韻”となって、リモートワーク時のオンライン空間でも互いの身体を感じ合うきっかけになるのです。

「身体性が欠如しがち」というリモートワークの課題を正面から捉えつつ、その不足をオンライン上の工夫や時折のオフライン交流で補っていく企業カルチャーを確立する試みを続けていくことが重要です。リモートワークは決して万能ではありませんが、現実的な最適解としての価値を模索する過程で、企業が新しい「身体性」を獲得していく可能性は十分にあるでしょう。

ベルクソンの時間を“無批判な信念=ドグマ”として追い求めるのではなく、あくまで具体的なビジネス・コミュニケーションの課題解決に限定的に応用することが、企業の冷静な態度として必要です。大切なのは、彼らの哲学を無批判に崇めるのではなく、「現実に使える範囲で限定的に取り入れる」という姿勢です。もし究極の理想を追求して、「直接対面こそが真に純粋な経験である」と極端に走れば、リモートワークの実践は否定されてしまうかもしれません。しかし、時間と場所の制約から解放されるメリットを考えれば、現時点の最適解としてリモートワークが大いに意義を持つことは明らかです。哲学を現実に生かすには、理想を追い求めつつも、あくまで“足場”を失わない折衷が重要だと考えます。

ベルクソンの時間論を踏まえたリモートワークのメリット

最後に、ベルクソンの時間論を踏まえながらリモートワークのメリットを整理してみましょう。ベルクソンが示した「質的な時間」や「生きられた持続」の概念は、私たちが一日の中でどんなふうに時間を過ごしているのかを問いかけるきっかけになります。場所に縛られ、通勤時間に多くのエネルギーを浪費する働き方は、生活と仕事を時間的に分断しがちです。結果として、仕事と生活、どちらかにしわ寄せがいく構造となります。朝早く家を出て夜に疲れて帰ってくる日々の中で、自分らしい時間や創造的な瞬間をどれだけ確保できるでしょうか。

ベルクソンのいう「時間の持続」は、仕事と生活を空間的・時間的に画然と区切る発想とは相容れません。むしろ、人間の意識や人生の流れにおいて、仕事と生活は有機的に混ざり合い、相互に影響を及ぼし合うものです。単なる効率化や生産性アップの話ではなく、リモートワークは、通勤時間を削減して、日常生活の合間に仕事をする選択肢を広げてくれます。地理的な制約を超えて、世界中の人々と協働できるだけでなく、生活と仕事がシームレスに繋がることで、一人ひとりが自分らしい働き方を形づくることができます。

リモートワークであれば、通勤時間に充てていた部分を家事や育児、自己研鑽に振り向けることが可能になります。例えば、仕事の合間に子どもの世話をしたり、ふとアイデアが浮かんだときに庭を散歩して頭を整理する、ときには早朝に仕事を進めて昼間は家族と過ごす、子どもの送り迎え、洗濯に掃除、宅急便の受け取り、子どもが寝た後にクリエイティブな作業に集中する、夜な夜な晩酌をしながら仕事のアイデアを練る、といった時間の混ざり合いが起こりやすいのです。

これはベルクソン的に言えば、“量ではなく質”の時間が増えるとも表現できるでしょう。時計が刻む単なる分や秒ではなく、実感として豊かな瞬間が増えることで、自分の生き方をより主体的に形づくることができるのです。各人が自分なりのリズムを見つけやすくなることで、時間は自分が味わうものであることに気が付きます。持続としての時間感覚が高まることで、「あれ?もうこんな時間?」という慌ただしさではなく、没頭や集中の中でこそ感じられる豊潤な流れを味わうことができます。これはベルクソンの時間論でいうところの「生きられた持続」を、現代のテクノロジー環境下で再発見する試みとも言えます。

ベルクソンの時間論を踏まえたリモートワークの限界

とはいえ、リモートワークを導入したからといって、いきなりアーティストさながらの創造的な生活リズムが確立できるわけではありません。リモートワークによって、“仕事と生活を混ぜればすべて創造的になる”という安直な発想です。ベルクソンの時間論をそのまま鵜呑みにして、まるで芸術家のような生活を一朝一夕で実現しようとすれば、逆に自己管理が崩壊し、どちらも中途半端になるリスクもあります。スケジュール管理やコミュニケーションの調整といったリアルな課題がリモートワークにもあります。「生きられた持続」に到達するためには、チームの信頼関係や適切なITツールの導入、そして何より働く一人ひとりの自発的な工夫と熱意が必要になります。そこには個人のモチベーションや能力開発のための自己鍛錬、さらには運や環境要因も影響してくるため、一概に「混ぜれば良い」というものでもないのです。


プロフェッショナルとして仕事をこなしながら、生活の時間にもコミットするためには、段階的な試行錯誤が必要です。あくまで「働く環境とプロ意識」が掛け合わされて、はじめて“仕事と生活を混ぜ合わせた豊かな時間”に行き着くのです。こうした苦労の中でこそ、まさにベルクソンが言う「創造的進化」が実感できるのではないでしょうか。結局のところ、私たちが人生の時間をどう「生き切る」かは、自分自身で選び取るしかないのです。

また、リモートワークには、オンオフの切り替えが難しくなるという問題点もあります。リモートワークの環境下で鬱病になったり、精神的にこれまで以上の疲労を感じたりする人が一定数居ます。こうしたリモートワークの弊害に対しては、企業文化や各個人の習慣、そしてSaaSと呼ばれるITツールを会社の業態に合わせて導入する工夫が必要です。これまで仕事と生活が空間的・時間的に画然と区切られていたものを、急に混ぜることで眩暈を起こすのも頷けます。あくまで「生きられる時間をいかに豊かにするか」ということが目的だとすれば、リモートワークだけにこだわることなく、様々な働き方があってしかるべきです。

しかし、それでもなお、「いま、目の前にある生活をいかに自分の時間にするか」ということを求めるためには、リモートワークが有効だと考えます。決まったオフィスや規則的な勤務形態にしばられないからこそ、自分らしさや創造性を仕事と生活のあわいに持ち込む余地が生まれます。日常の隅々に散在する時間を発見し、それをいかに活かすかは、個人の創意工夫と企業文化の柔軟性にかかっています。結局のところ、ベルクソンの時間論が喚起しているのは「生きられる時間をいかに豊かにするか」という普遍的なテーマです。リモートワークはその問いに対するひとつの具体的なアプローチであり、私たちが再び“本当の時間”を取り戻すきっかけであり、挑むべき試練ともなりうるのです。

ベルクソンの時間論から見れば、人生とは決して機械的に区切れるものではなく、ひとつの連綿とした流れを辿ります。それをビジネスや働き方に反映させるのであれば、場所や時間を固定するのではなく、それぞれの人が自分らしく生きながら働く道を用意していくほうが、社会全体にとっても豊かではないでしょうか。リモートワークは、その意味で、「持続の哲学」を実践する可能性の扉を開きます。

クラウドであたらしい働き方を

時間は自分が味わうものであり、働き方は自分で作るもの。リモートワークは「空間の制約を減らす」だけでなく、「時間の持続を豊かに味わう」働き方を実現する入り口である、と我々は信じています。通勤に追われているときには見えなかった可能性や、遠隔地のメンバーと出会い、意外な化学反応が生まれる機会も、クラウドを活用することで増えていきます。リモートワークはただの“働き方改革”ではなく、人間が本来持っている創造的な時間をいかに活かすかという、哲学的な問いへの一つの答えにもなるかもしれません。そしてなにより、創造性や自由が宿る働き方を広めていけば、日本の生産性は質的に高くなっていくはずです。

創業以来、リモートワークによって豊かな時間を育んでいけると信じてネクストモードを運営してきました。世間を見渡してみると、まだまだ「もったいない働き方」をしている潜在顧客は多く、私たちの出番はこれからもたっぷりとあります。来年は「クラウドの力で世の中をもう一段上のステージへ押し上げる」というミッションを一層加速させたいと考えています。新しい商材や仕組みも着々と準備中です。私たちだからこそ提案できる「あたらしい働き方」を、さらに世に広めていきたいと思います。

今年もネクストモードをよろしくお願いします。

※注1:ベルクソンの時間論は、質的な持続や直観を重んじるところが特徴です。一方、日本の西田幾多郎もまた、人間の意識や経験の在り方を根底から問い直そうとした哲学者でした。彼は「個人が先にあって、その後に経験を積み重ねるのではない。むしろ、経験そのものが先にあり、それが個人を形作るのだ」という逆転の発想を提示しました。これはベルクソン的な、主観の中で刻々と変化する“生きられた時間”と響き合うものがあります。西田哲学では、意識を「純粋経験」として捉え、その直接性を重視します。現象学の領域においても、フッサールが意識の志向性を通じて、物事がどのように意味づけされるかを探求し、ハイデガーは「存在と時間」で人間の実存が時間性を持つ点を追究しました。ベルクソンの“持続”、西田の“純粋経験”、ハイデガーの“現存在としての時間”、フッサールの“志向性”は、それぞれアプローチが異なれど、主観と時間の不可分性を見つめようとしている点で通底しています。さらにレヴィナスに至っては、他者との関係性において主体が揺さぶられる瞬間を重視し、ドゥルーズはベルクソンを再評価することで「生成変化する差異の哲学」を展開しました。ドゥルーズによるベルクソンの読み解きは、持続がそのまま創造性の源泉となる“生成”の哲学へとつながっています。そこでは、時間はただ過ぎ去るものではなく、新たな価値や意味を生み出す原動力となりました。このように、ベルクソンが提示した“内在的な時間”の観点は、東洋的な一体性を志向する西田哲学と響き合いながら、ヨーロッパ大陸の現象学者たちにも大きな影響を与えてきたといえます。特に西田の「経験がまずあって、そこから個人が成立する」という考え方は、時計で計れる外的時間を超えた、主観的な経験の充実を重視する点で、ベルクソンと現象学の懸け橋として重要な位置を占めています。