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固定化された自分を揺らす──旅と哲学が導く“働き方の本質”

日本酒をこよなく愛する里見です。2020年に会社を立ち上げて以来、旅をしながら働いています。クラウドネイティブな会社だからこそ、いつでもどこでも働けるスタイルを追求しています。
今回の旅はスリランカ。ローカルな宿に泊まりながら、コロンボからシギリヤロック、トリンコマリーを周りました。最近は、フルリモートワークの会社だからこそ、リアルな体験の大切さを感じておくことが大事だとますます思うようになっています。なぜ出社に回帰する企業が多いのか、実際に出会わないと解決しないものは何か、その根本に身体論があるような気がしています。
そこで、スリランカを旅する中で、時間や身体について考えたことをまとめておきたいと思います。

イギリス統治時代の美しい建物コロンボの中心地にはイギリス統治時代の美しい建物が残っています

博物館イギリス統治時代の建物が博物館になっているようです

旅する身体、ずれる自己


朝の05:00頃、コーランを詠む声で目覚めるのが日課です。まるで政見放送のように街中に響き渡る声は、バナナの葉を揺らす海風と混じって、意外にも心地よい目覚まし時計代わりになってます。千葉の自宅で「アラーム音で無理やり起こされる」のとは大違いです。

まだ乾ききらない夜の湿気がねっとりと肌に纏わりつく中、朝一番のWEB会議で「おはようございます」と挨拶すると、画面の向こうの同僚たちは「今日は涼しいですねぇ」と返してくる。そうか、東京は涼しいのか。この微妙な挨拶のズレが、なんともいえず面白いです。日本との時差は3時間半——この数字は、単なる時間のズレではなく、もっと深い何かを暗示している気がします。

この数年、旅をしながら働くという、一昔前なら「怠け者の夢物語」と言われたであろう生活を送っています(実際、両親にはいまもそう思われています)。そんな中で、いつも「自己」と「時間」、そして「身体」の関係について考えさせられます。この考えのきっかけとなったのは、どこかで日本と違う「ずれ」を感じることにあります。

世界遺産のダンブッラ石窟寺院

世界遺産のダンブッラ石窟寺院には、150以上の釈迦像があるそうで、その巨大さに圧倒されます

黄金の仏像の前

黄金の仏像の前では、両手・両膝・額を地面に投げ伏して、五体投地で祈りを掲げる老婆がいました

寺寺院では仏教の教えに基づいた清浄さを保つため、裸足で境内に入ります。それにしても暑かったです。

メルロ=ポンティと「ずれる身体」


身体論の哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、私たちの身体を「世界とかかわりを結び直す媒介」として捉えました。彼にとって身体は、知覚の受動的な受け皿ではなく、能動的に世界を編み直す「現象の地平」です。言い換えれば、我々は頭で世界をとらえているのではなく、身体で世界をとらえている、ということになります。

つまり、私たちは「世界を知る頭」としてではなく、「世界に触れる身体」として生きています。これは、デスクワーク中心の現代人には、なかなか実感しにくい話かもしれません(私も以前は運動が苦手で、身体について頭で考えていました)。しかし、旅に出ると、この理論が俄然リアルになります。

時差の中に身を置くと、思考と身体がかすかに分離していきます。WEB会議では、画面の向こうの同僚たちが日本の午後の倦怠感に包まれているのに、自分は朝焼けの湿った空気の中で話している。この違和感こそが、「今ここ」にある身体のリアルを再確認させます。

Netskopeのスリランカからのリモートワークは、Netskopeがあるおかげで安全に働けます。POPはインドでした。

スリランカのシーギリヤロックを訪れたときのことです。地上200メートルほどの岩山を登る最中、途中の展望ポイントで、ふと岩肌の裂け目から下をのぞき込んだ瞬間、全身が硬直するような感覚に襲われました。頭では「安全な場所だ」とわかっているのに、身体がまったく言うことを聞きません。手すりを握る手にじっとりと汗が滲み、足は地面に吸いついたように動かず、目の奥がキュッとすぼまります。これは、高所恐怖症の類ではなく、まさに「身体が世界と出会う瞬間のリアル」だったと思います。

その場に行く前までは、WEBやYouTubeで何度も見た場所でした。しかし、画像ではまったく伝わらない「風の強さや臭い」や「足元の不安定さ」、「自分の身体がその場にあることの危うさ」は、実際にその場に立って、五感を総動員してはじめて立ち現れてくるものです。こうした感覚は、情報としての「場所」ではなく、身体と空間との関係性の中でしか立ち上がらない——まさにメルロ=ポンティの言う「現象の地平」としての身体が、むき出しのかたちで露わになった瞬間です。

そして、息を切らしながら辿り着いた頂上では、360度の大パノラマが広がっていました。ジャングルの深い緑がどこまでも続き、その中にぽつぽつと村の屋根が見え、遠くの空には低く雲がたなびいている。吹き抜ける風は容赦なく強く、肌に触れる日差しは痛いほどに熱い。展望台でただ風景を「眺めている」わけではなく、風にあおられ、汗をぬぐい、水を欲しがる喉に意識を持っていかれながら、身体がその場の一部として溶け込んでいるという実感がありました。

手元のペットボトルはあっという間に空になり、「こんなに喉が渇くものなのか」と驚くほど、身体はこの空間とやりとりをしています。ただ見るだけなら、家でもできます。でもこの景色を“感じる”には、足を動かし、汗をかき、風に吹かれ、喉を乾かし、水を飲むという一連のプロセスが必要なのだと、あらためて実感しました。

このように、旅とは、知識や写真を積み重ねるものではなく、むしろ身体を通して世界と再接続する出来事なのかもしれません。身体は世界に触れながら、自分の輪郭すら揺らしていくのです。まさに、言葉にならない「ずれ」の連続——この体験の後に見た、次の朝のスリランカの光すらも、昨日までとは少し違って見えました。

b18774f9-e6a9-4629-9b37-d2a6893ae34c世界遺産のシーギリヤロック。写真ではなかなか伝わらない壮大な景色です。

シーギリヤロックは要塞化した岩上の王宮跡

シーギリヤロックは要塞化した岩上の王宮跡で、登ってみるとそのスケールに圧倒されます。

細くて急な階段

手摺りがついてはいますが、細くて急な階段は、グラグラと揺れてかなり怖いです。

木村敏と「時間の固有性」


そしてこの身体の「ずれ」を、もう一段深く捉える鍵となるのが、精神科医・哲学者である木村敏の『時間と自己』です。

木村は、人間の〈自己〉とは、自己完結的な存在ではなく、「他者との関係の中で流れる時間の中に生成していく現象」であると論じました。彼が語る「固有時」という概念は、時計の時間とは異なる、主観的・身体的な時間の流れを意味します。

スリランカで朝5時に目覚める身体が感じる湿気、音、光——それは東京の"現在"とは別の「固有時」を生きていることを示します。WEB会議で「おはようございます」と言う私と、「今日は涼しいですね」と返す同僚との間には、実際の時差以上に、「生きられた現在」の違いが横たわっているのです。

このような固有時のズレこそが、〈自己〉のズレをもたらし、私たちを自分自身に問い返させる。木村が言うように、「他者の時間に触れること」は、自己の固有時を浮かび上がらせる作用を持ちます。まさに旅は、「自己の時間」と「他者の時間」が交錯する現場であり、そこに自己の輪郭がにじみ出てくるのです。

ダンブッラの市場ダンブッラの市場で機械を使わず人が野菜を運ぶ姿には、逞しさを感じます

昨日はダンブッラで市場の見学をしました。日本の市場とはまったく異なり、すべてが身体任せの手作業です。麻袋にぎっちり包まれたカボチャや玉葱、茎に連なるバナナ、芋、パイナップル等を、日本の中古車とおぼしきトラック(よく見ると「◯◯運送」みたいな日本語のペイントがされています)から荷下ろしをしていました。男性たちが一つ一つ手で運ぶその姿は、まさに人間の身体が持つ原始的な力強さを思い起こさせます。

圧倒的な物量と逞しい肉体をかき分けて場内を歩いていると、あまりに現実感がなく、演劇の中に迷い込んでステージを歩いているような気持ちになりました。

特に印象的だったのは、香辛料のエリアです。コリアンダー、カルダモン、シナモン、クローブ——それぞれが麻袋に山盛りになって、香りが混じり合って独特の空気を作り出しています。スリランカの市場で「他者の時間に触れること」で、東京のスーパーで小瓶に入ったスパイスを買っていた自分が、なんだか別の時代の住人のように思えてきます。

売り子の女性が、手慣れた様子で量り売りをしています。昔ながらの天秤ばかりで、重りを載せたり外したりしながら、絶妙なバランスを取っている。その手さばきは、まさに職人技です。「これはメルロ=ポンティの言う『身体知』そのものだ」と気づいた瞬間、哲学の抽象的な概念が生き生きとした現実になりました。彼女の身体は、長年の経験によって「重さを感じ取る技術」を身につけているのです。「食べ物を得る」という行為の根本的な部分を見せつけられた気がしました。

ローカルバスの中ダンブッラからトリンコマリーまで、クーラーのないローカルバスで移動しました

トリンコマリーの道端の商店トリンコマリーの道端の商店は、様々なフルーツの香りに包まれています

菅孝行の「関係としての身体」


——そして、どこかで旅は演劇に似ていると感じます。

演出家であり思想家でもある菅孝行は、『関係としての身体』でこう語っています。「身体は個人のものではない。関係の場において立ち上がる現象である」と。つまり、身体とは「誰かとの間」によって形作られます。旅とは、その「関係性の編集」でもあるわけです。考えてみれば、私たちの日常生活は、実に巧妙に「編集」されています。

SNSでもMeetでも、常に「編集された関係」に身を置いています。しかし旅に出ると、予定調和の編集が崩れ、思いがけない出会いや風景が流れ込んできます。道を歩けばココナッツ売りに声をかけられ、オススメの地元のチャイ屋を教えてくれる出会いがあります。瞳が大きいアーリア人の子供は美男美女ばかりで、見知らぬ日本人にも手を降ってくれます。彼らの無邪気な笑顔は、どんなMeetのWeb画面よりも鮮明で、どんなSNSの投稿よりも心に残ります。

何度も再現しようと試みたのですが、路上で飲んだチャイの味は自分では作れません。カルダモンの香り、煮詰まった牛乳の濃さ、紅茶の渋み、どれもこれも独特で、お店ごとに異なります。

それは、演劇が舞台の上で一回性の関係性を生むのと似ています。映画やYouTube、さらにはVRのリアリティがどれだけ進化しても、演劇や旅の持つ「いま・ここ・私」の関係性には、決して届かないのです。

ニラヴェリのビーチトリンコマリーの北10kmにあるニラヴェリのビーチ

シーギリヤロックの頂上

シーギリヤロックの頂上は風が強く、煉瓦の照り返しで喉が渇きました

自己の再発見は、他人になることから始まる


旅が自己認識を深めるのは、旅そのものの中にある「非日常」の刺激だけではありません。むしろ、旅に出る前の日常と、旅の途中で感じるズレ、そして帰ってきたときに感じる微かな違和感——

長い旅だと、帰国してすぐの日本食が美味しかったりします。今回は、スリランカから帰国したら、スパイスが恋しくなることでしょう。

「ホテルで飲んだLIONのスタウトビールがあんなに美味しかったのに、日本で飲むと苦い」

「スリランカであんなに美味しかったスーパーのお菓子が、日本で食べるとモサモサして美味しくない」

その土地の風土と食べ物が絶妙な味わいを感じさせてくれる一方で、それを丸ごと「持ち帰る」ことはできません。まるで別れた恋人との時間後のように、思い出の方こそ美しいのです(すみません、急に感傷的になって)。

更には、日本での日常もちょっとした変化を感じます。

「毎日飲んでいた日本の豆乳が滑らかに感じる」

「なんであのとき、こんなくだらないことで悩んでいたんだろう」

こうした「僅かなズレ」の中に、旅する前の自分を「他人」のように感じる瞬間があります。これは実に奇妙で、かつ興味深い体験です。

今朝も、スリランカの濃密な朝の空気の中で、東京の自分が遠い存在のように感じられました。満員電車で初台の親会社に通勤していた自分、コンビニ弁当を急いで食べていた自分——まるで別人のことのように思えます。これは、五感が旅を通して受け取った「世界のノイズ」によって、自己という存在が揺さぶられ、相対化されるからこそ得られる体験なのでしょう。一度、自分が「他者化」することで、むしろ輪郭が明確になっていく。そこに「自己の再発見」があります。まさに、自分を知るためには、まず自分から離れる必要があるのでしょう。

ビリヤニ今回の旅ではビリヤニの美味しさにハマりました

ビリヤニ2半茹でにした米と、別途調理された具材を合わせて炊き込むのがビリヤニだそうです

ビリヤニ3同じお店ですが、盛り付けが日によって違うのがスリランカらしいです

なぜネクストモードは「旅する働き方」をすすめるのか


この5年間、年間200日以上のワーケーションを続けながら、一つの確信に辿り着きました。当初は「これは単なる逃避ではないか?」と自問することもありました。しかし今は確信しています。旅する働き方は、単なる自由や気分転換のためではないと。

私は、身体のリアルを取り戻し、日常を相対化する「移動」の力を信じています。旅の途中、五感は世界と新たな関係を結び直します。スリランカの朝の光の中で、ふと気づく瞬間があります。「今の自分は、どこから来て、どこに向かっているのか?」という問いに、少しずつ答えが見えてくるのです。

AIのシンギュラリティが話題になっている今、身体を持たないAIの限界と可能性についても考えさせられます。この考察も、旅をしながら向き合うと、また違った答えが見えてくるかもしれません。

時差のズレ、関係のズレ、そして自己のズレ——それはすべて、未来の私をつくるために必要な「余白」なのだと思います。

ニラヴェリのビーチニラヴェリのビーチ

ニラヴェリの安宿から眺める椰子の木ニラヴェリの安宿から眺める椰子の木

椰子の木を仰ぎ見るこの美しい朝の空気の中で、私は今日もまたノートパソコンを開きます。画面の向こうには日本の午後があり、画面のこちらには新しい私がいる。こんな働き方ができる時代に生まれて、本当によかったと思います。

クラウドであたらしい働き方を。旅することで、あたらしい自分に出会うために。


P.S. 今日のスリランカは快晴。朝食のダルカレーが美味しく、辛さにも慣れてお腹も緩くならなくなってきました。これも立派な「身体の適応」だと思います。人間の身体、本当にすごいです。

カンダラマ貯水池周辺の原生林カンダラマ貯水池周辺の原生林